毎日頭の中が先生でいっぱいです
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こんばんは。なんかウェブ拍手がリニューアルしたっぽいですね。大幅に改善されたみたいですね、移行作業された方ほんとうにおつかれさまです。いつもお世話になってます。とここでお礼を云っておこう。
で、拍手いただきましてありがとうございました。うん、わたくし、がんばって生きてます。どうもありがとうございます。。拍手があったかかった!ほんとにありがとうございました。。
今日はネイルサロンにいってクリスマスっぽいつめにしてもらい、むふむふしたのですがそんなことはまあいいとして、本日友人を部屋に入れました。ええ、もちろん、BJのOVAがごろごろしていたり、マンガがごろごろしていたり、ちゃんぴおんがころがっているお部屋にです。
友「マスダはマンガとか読む子だったっけ?」
わし「読めるようになりました。けけけ」
友「アニメとか興味あったっけ?」
わし「見るようになりましたけけけ」
友「けどぱっと見BJしかないじゃん」
わし「いまんとこそれしか読めてないですけけけ」
友「なにがあんたのへんな感性に引っかかったんだろうね……」
というようなやりとりがありまして、なんなのか、ということをちょっと説明してみる必要に迫られまして、まあ彼女にまじめに応答してみました。
というわけで、その内容を踏まえて今日はちょっとまじめにわたくしの切り取っている先生のことについて。
興味ある方だけ読んでください。
で、拍手いただきましてありがとうございました。うん、わたくし、がんばって生きてます。どうもありがとうございます。。拍手があったかかった!ほんとにありがとうございました。。
今日はネイルサロンにいってクリスマスっぽいつめにしてもらい、むふむふしたのですがそんなことはまあいいとして、本日友人を部屋に入れました。ええ、もちろん、BJのOVAがごろごろしていたり、マンガがごろごろしていたり、ちゃんぴおんがころがっているお部屋にです。
友「マスダはマンガとか読む子だったっけ?」
わし「読めるようになりました。けけけ」
友「アニメとか興味あったっけ?」
わし「見るようになりましたけけけ」
友「けどぱっと見BJしかないじゃん」
わし「いまんとこそれしか読めてないですけけけ」
友「なにがあんたのへんな感性に引っかかったんだろうね……」
というようなやりとりがありまして、なんなのか、ということをちょっと説明してみる必要に迫られまして、まあ彼女にまじめに応答してみました。
というわけで、その内容を踏まえて今日はちょっとまじめにわたくしの切り取っている先生のことについて。
興味ある方だけ読んでください。
※えっと、これたぶん痛い告白だと思うので、要はあるキャラクターのどこに自己の一部分を見出していたかとかそんなはなしだから、そういうので先生を汚したくない方は読まないでください。
以前どこかに、先生がいきなりわたくしの「すき!」メーターをぶっちぎりでふりきってしまいました、的なことを書いたような記憶があるのですが、その当時はなんでこんなに彼のこと愛しているのかしら、きっと運命だわ、とかあほなことを思ってました。
が、いろいろ自分の中身にむきあってる昨今、その原因がわかってきたくさいので、ちょっと書きます。
わたくしのものかきの動機が「先生にしあわせになってほしいなああはん」という乙女心だ、というのもどっかにかいた記憶がありますが、これはつまり、まあ要は早い話がわたくしのたぶん絶対満たされない願望というやつなのですな。。
わたくしが先生を「まい・でぃあ」だと思ってたあたりは気づかなかったんですけれども、こんだけ好きな理由は、わたくしなりに先生に強烈なシンパシーを感じていたということで、それはなんなのかというとつまりは「お母さんを喪失している」というところ。それから、これはわたくしができないからこんなことになってることなのだけど、愛を失ってなお、それをある部分超越して、というか制御して、生きてる、ということ。憎しみと、それに愛を両方とももって、生きてる、ということ。自分の世界を。明確な意思をもって。それでも自分を見失わずに。
とてもきもちわるいことを書くと、わたくしが書くもののなかでキリコ先生を通して先生に与えられる愛というのは、わたくしが決して得られぬ愛でもある。決して見はなさぬ愛であり、無限であり、自分をこの世界に存続させるために必要な愛。いつでも出てゆけるし、戻ってこられる。つまるところが、おかあさんの愛である、ということなわけ。
ここで、わたくしはこれまで、どれくらい先生のなかに自分を投影していたのだろうと考えざるを得ない。先生を故意にゆがめてしまっていたのだろうかと思う一方、そもそも解釈というのが一体どこまで「純正」なものでありうるのか、ひとの頭の中通り抜けてそのひとのフィルターかかってるから解釈っていうんじゃないか、ということは、わたくしは先生のそういう部分をクローズアップしているわけで、それは単にそういう面をきりだしたのにすぎないから別にこれもありである、と考えて、修正せずにまあよろしいとしておいてもいいのだろうか。
そんなことを、いま考えているところ。わかりにくくてすいません。
そもそもものを書く、ということそのものの一切合財が、批判的な視点からスタートするものだとしたら、裏返してそれは欠如しているものへの願望だ、とかいわれたら、もうそれはズバリそれまでだけど。
でも、たぶん現状書けるものがわたくしの書けるもののすべてであって、それだけはどうしようもないのねきっとね。
そういうことだから、わたくしの書くものはなんかめんどくせえというのはわかってますけど、まあ、しょうがないですこればっかりは。。。ああ、だから自分の書くものには「萌え」とかまったくかんじないのか!なんか納得した。
でもそればっかだと窒息死するので、ラブいのを書いてみてるのね。たぶん。。
そんな感じだと思います。いまのわたくしは。かわるかもしれないし、かわらないかもしれないけど、でも全部、結局書いてるのがわたくしなのです。あしからず。
以前どこかに、先生がいきなりわたくしの「すき!」メーターをぶっちぎりでふりきってしまいました、的なことを書いたような記憶があるのですが、その当時はなんでこんなに彼のこと愛しているのかしら、きっと運命だわ、とかあほなことを思ってました。
が、いろいろ自分の中身にむきあってる昨今、その原因がわかってきたくさいので、ちょっと書きます。
わたくしのものかきの動機が「先生にしあわせになってほしいなああはん」という乙女心だ、というのもどっかにかいた記憶がありますが、これはつまり、まあ要は早い話がわたくしのたぶん絶対満たされない願望というやつなのですな。。
わたくしが先生を「まい・でぃあ」だと思ってたあたりは気づかなかったんですけれども、こんだけ好きな理由は、わたくしなりに先生に強烈なシンパシーを感じていたということで、それはなんなのかというとつまりは「お母さんを喪失している」というところ。それから、これはわたくしができないからこんなことになってることなのだけど、愛を失ってなお、それをある部分超越して、というか制御して、生きてる、ということ。憎しみと、それに愛を両方とももって、生きてる、ということ。自分の世界を。明確な意思をもって。それでも自分を見失わずに。
とてもきもちわるいことを書くと、わたくしが書くもののなかでキリコ先生を通して先生に与えられる愛というのは、わたくしが決して得られぬ愛でもある。決して見はなさぬ愛であり、無限であり、自分をこの世界に存続させるために必要な愛。いつでも出てゆけるし、戻ってこられる。つまるところが、おかあさんの愛である、ということなわけ。
ここで、わたくしはこれまで、どれくらい先生のなかに自分を投影していたのだろうと考えざるを得ない。先生を故意にゆがめてしまっていたのだろうかと思う一方、そもそも解釈というのが一体どこまで「純正」なものでありうるのか、ひとの頭の中通り抜けてそのひとのフィルターかかってるから解釈っていうんじゃないか、ということは、わたくしは先生のそういう部分をクローズアップしているわけで、それは単にそういう面をきりだしたのにすぎないから別にこれもありである、と考えて、修正せずにまあよろしいとしておいてもいいのだろうか。
そんなことを、いま考えているところ。わかりにくくてすいません。
そもそもものを書く、ということそのものの一切合財が、批判的な視点からスタートするものだとしたら、裏返してそれは欠如しているものへの願望だ、とかいわれたら、もうそれはズバリそれまでだけど。
でも、たぶん現状書けるものがわたくしの書けるもののすべてであって、それだけはどうしようもないのねきっとね。
そういうことだから、わたくしの書くものはなんかめんどくせえというのはわかってますけど、まあ、しょうがないですこればっかりは。。。ああ、だから自分の書くものには「萌え」とかまったくかんじないのか!なんか納得した。
でもそればっかだと窒息死するので、ラブいのを書いてみてるのね。たぶん。。
そんな感じだと思います。いまのわたくしは。かわるかもしれないし、かわらないかもしれないけど、でも全部、結局書いてるのがわたくしなのです。あしからず。
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