忍者ブログ
毎日頭の中が先生でいっぱいです
2024/05
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 こんばんは、マスダです。昨日はえらくのんだくれて帰ってきました。なんか知らないおじさんにお酒とサラダおごってもらった(笑)そういうことってあるよね。。酒の勢いっていいよね(笑)そういうことはだいたい若いうちにしかやってもらえないので、いまのうちにきゃーわーありがとうございますう、とか云ってればいいのです。そういうのは一時の高揚とか気分ですから、あんまり重たく考えずにおごってもらえばいいわけですね。おごりたいという気持ちは、とりあえず善意なのだと軽く考えておくに越したことはないようです。男じゃないから男の本心はわからないんだけどさ、でもたぶん、そういうのってちょっといい気分になりたいし向こうにもいい気分になってもらいたい、とかいうことで、いいような気がする。とりあえずそれ以上深く考えなくていい気がする。考えだすといろんな問題にぶち当たってしまうからね。

 そんで、昨日のいいこと。ともだちが、近くに、まじで近くに引っ越してきた(笑)チャリンコで行ける(笑)これはうれしい。会おうと思えばいつでも会えるっていうのはいいよね。これまではお互い片道1時間以上かけないと会えなかったから、ちょこちょこ会えるようになるのはいいことですよね。そのひととはなんかちょっと通じるものがあって、全面的にではないけど、なんとなくぼんやり近いひとの枠の中に入ってる。これに気がついたの最近なんだけどね。
 で、これマスダ最近ずっと云ってるんですけど、今年は絶対なんかいいことある、根拠はないけど絶対なんかある、ってずっと云ってて、それにその子が感化されて、部屋に「絶対いいことある」って書いて貼ったそうです(笑)ばかばかしいと思うかもしれないけど、そういうのって大事なので、根拠もなくいいことあると思ってるとほんとにいいことがあります(笑)友だちが近くにきたし、おじさんにおごってもらうし、なんか変なとこからお金出てくるし、身体は順調に戻りつつあるし、仕事はあるし、そういうこまかいことをいっぱい数えてくと、こりゃあ今年はいい年だな、とか思うわけです。
 気の持ちよう、って、どうやらほんとに大事みたいよ。気持ちを整えると、身体が整ってくるみたい。

 このあいだまでのマスダさんは、たぶん不安と虚無と恐怖という三大要素の中にいろんなものを見出していたんだけど、それはそれでとても重要な要素があるんだけど、その中にいつも浸ってることが、かならずしもいいことではない、ということに、気がついて納得するまでに二年かかった。一年くらいでなんとなくわかったような気がしてきて、ここ半年くらいでうわあああっとわかるようになってきた。そういうのを、捨てるということではないですよ。それはそれで自分の大切な要素であり、必要不可欠なものであることは理解しているのだけど、自分がそういう人間なのだ、と思いこんでその中にどっぷり浸かってしまうのは、要するに自分の心の修養不足だということがわかったわけです。
 ゲーテがいみじくも云っている。わたしがこれまで生きてこられたのは、私の心の力のおかげである、と。
 世の中には、いろんな不公平があって、肉体的な優劣とか容姿の優劣とか、生まれついた環境の差とかいろんなものがあるんだけれども、少なくとも物質的にはある程度満たされている状況に生まれついて、いろんなものを理由にいつまでも自分の不幸を嘆くのは、要するに、ただの甘ったれにすぎないということ、なのです。これを認めるのはものすごくこう、おなかがうひゃあああってなるような気がするものです、最初は。でも、自分の人生は自分の責任です。親のせいにしていいのはある程度の歳までで、環境のせいにしていいのもある程度の歳までです。自分の人生は、自分の足で、歩かなくてはいけません。
 人間が物質的に豊かになるにつれて、愛情、というものがたぶんとても大きなウェイトを占める問題になってきていると思います。親の愛情の欠乏、が、社会が整ってきたからこそ、いろんな問題の根本として云われるようになってきた。それは、一種の進歩であると思います。食うや食わずを問題にしていた時代と、いまここに生きている人間とは、本質的に問題の質が異なります。だから、そういうことで悩むひとがとても多くなってきた、不安定なひともいっぱいいる、愛が足りない、自分の立っている場所がここでいいのかどうか、自分の存在がこれでいいのかどうかわからない、そういう悩みは、決してくだらないことでも、ばかげたことでも、甘ったれた悩みでもない、それは人間の根本に関わる悩みだから、真剣に悩んでいい、そして助けを求めてもいい。
 ただ、そこにいつまでもいてはいけないのだとあたいは思う。悩んだ、苦しんだ、そこから先をどうするか。いつまでも悩むか。自分は被害者だと思い続けるか。そう思い続けたら、被害者の人生しか送れなくなる。苦しいけれども、足りないものは、自分で作ってゆくしかない。信仰に似ている。人間を、ほんとうの意味で歪めてしまうものは、たぶんなにもない。なにが欠落していても、人間は本質的にちっとも歪まない。歪むのは、心が歪むからだ。歪んだ心を、叩き直さないといけない。それは苦しいことだけれど、そこでしごかれたぶん、次はもっとでかいものが来ても、負けなくなる。これはほんとうだよ。。そうして次の世界が見えたとき、自分の過去の亡骸を見て、過ぎ去りし影よと思う。

 こんなことを書けるのは、書いているのは、あたいがなにか特別なことをしたのでもなんでもなくて、ただ万人の中に潜在的に潜んでいる力を、出せただけだ。人間その気になればほんとにそうなるんだよって、云いたいだけです。昔は、それはうそだと思っていた。神が強い者と弱い者とを作って、世界はできあがっているのだと思っていた。でも強い人間と弱い人間がいるのではない。特別に打たれ強い人間だけが、勝者になれるのではない。本質的な強さは、みんな一緒だ。そしてそれを開発することは、他人に対してもっと優しくなれることを意味している。ひとの弱さがわかるからだ。自分だって、昔はそうだったとか、明日はそうなるかもしれないとか、そういうふうに思えるようになるからだ。
 最近、マスダさんは強いねえって云われるから、別にあたいが強いわけじゃないな、と思って書いてみた。マスダは、別に強くない。しごかれることの意味を、知っただけです。ほんとうにやさしいとはどういうことか、ほんとうに人間らしいとはどういうことなのか、そもそも人間はどうあるべきか、そういうことについて、ちょっとわかるようになっただけです。
 誰でも、なんでも克服できるのです。それがほんとうだと確信するようになったから、あたいは毎日楽しいです。楽しいと思いこんでるんです。いいことだらけだと思いこんでる。それだけで、ずいぶん見える景色が違います。

 最近なんでこんなことばかり書いてるのか、実はよくわかりません。もうすぐ死ぬのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どっちでもいいです。たぶんまだ死なないと思います。まだやらないといけないことがあるから、たぶん、まだ死なないと思いたい(笑)なんだろうね、たぶん、ひと区切りついたんじゃないかなあ。自我との葛藤が(笑)そんで、いろんなことを本質的に見れるようになってきたということなんだと思うよ。きっとね。ずいぶん長い道のりだったけど。
 それを、みなさんにちょっと、おすそわけの気持ちなのかもね。別にいらないかもしれないけど(笑)
PR
 こんばんは、今日もなかなか厳しい天気だった(笑)
 昨日ついったで、話の流れからつなまよさんに最終学歴を暴露したのですが(笑)よく考えてみたら、学歴ほどあてにならんものはないなと思ったので、これについてちょっとひとこと申さずには気が済まない気がしてきたので書いておきます。

 あたいの最終学歴は、まあそこそこくらいだと思うんですが、たとえこれで東大を出ていようが、早慶を出ていようが、はたまたほとんど無名の大学を出ていようが、マスダの人生にたぶんなーーーーんも影響はなかったと思われる(笑)そういう道を選択してきたということもあるけれどもね。
 学歴でそれなりの評価みたいなものをされる時期というのは、仕事に関して云えば就職活動と就職してからちょっとのあいだまで、そういうつかの間の甘い記憶に過ぎない。まあ初任給が違うっていうのはものすごく根本的な問題なので軽々には云えないものがあるうえに、経歴としては一生ついてまわるわけだけど、あたい自分の大学あんまりすきじゃないから(入って失敗したかもしれんと思った、でもそれもそれでいい経験だったけどね)、ついてまわってもあんまり嬉しくない。いまの仕事は学歴関係なく給料一緒だしね。
 で、就職したあとはどうなるか。
 日本というのがそこそこにいい社会だなあと思うのは、ちゃんと真面目にやってれば、それなりに認めてくれるひとがいて、道はそれなりにあることです。いろいろ絶望的なことを云うひとがいるけど、それは一時的な現象であって、学歴がないとかいうことがいつまでもそのひとの人生について回るなんてことは、ない。断言してしまおう。ない! そういう例を見たことがないからです。それは「持っている側」の意見だと云われればそれまでかもしれないけど、でも学歴隠して仕事してもちゃんと仕事してればそれなりに評価くれたりするよ。。給料に反映はされないけど(笑)でもそんなことよりもひととしての信頼のほうが何十倍も大事だからさ。。たとえ一時的なものにしても。

 だいたい、過去にどえらいことを成し遂げたひとは、大概があまりいい家の出ではない。金持ちでもない。持たざる者は、強い。あるいは、一度手に入れたものをかなぐり捨てることのできるひとは、強い。それで、大事なことは自分がなにを身につけ、なにを為すかであって、どこを出たか、ではない。人間は単一のものさしで測れるほど単純な生き物ではないので、そういうものさししか見えないひとのことはかわいそうに思っておけばいいんじゃないかと思うの。
 学ぶのに、環境は関係ないしね。大学の四年間、大学とは全然関係ないけど、いろいろ学んだし。いまでも別に学校行ってないけど、いろんなこと学べるよ。教科書はいろんなとこに転がっているし。ほんとうにそのひとが学ぶべき時期が、学校の時期とずれてたって別に問題ないとも思う。なにを学ぶかも、そのひとが決めればいいことであって。生き方はそれこそ無数にあるのだから、どこかでつまづいたとしたって、ぜんぜん問題ないよーん、あとでそれがどっかで活きてくるけん、という気楽なおっぺけぺな意見を、受験戦争を過ぎた身から云ってみる。

 若いとき、というのはいかんせん道が一本か、せいぜい数本しか見えないのが道理で、それから外れるともうなにもないように見えるもので、たぶんそれが正常なことなのだと思う。もっといろんな道が見えるようになるのは、もうすこし人生を経験してから。そのうち、人生に対して、ある種の確信を持つようになる。道はある、これでいい、という、なにか内的な悟りみたいなものなんだけど。それができるともうちょっとやそっとじゃ大幅には動じなくなる。マスダはたぶんいまその入り口まで来た。まだまだ修行が必要だけど、奥にはたぶんもっと深いものが見えているので、そこをぐぐいと探りたいと思ったりしてる。
 とにかく云いたいことは、なにを求めるか、どう歩むかはそのひとの自由、なにをしてもいいし、しなくてもいい、あらゆる学歴も、社会的地位も、みんな夢みたいなもの。ほんとの自分は、そういうものに左右されるところには、存在しない。
 でも、受験戦争も、就職戦争も、ストレス社会も、金銭格差も、病気も、そういう経験ひっくるめて全部必要なものだから、いまここに生きてるわけで、人間はそういうものを積み重ねていく中でしか、結局何も学べないし、得られない。
 生きてるってことは、実に貴重なことであるよ。。。と、思うんだけどなあ。。

 だからあとちょっと、真剣に真摯に悩み、頑張れ、すべての受験生。
 こんばんは、マスダです。今年の冬はなかなか厳しいですねえ。
 今日、矯正を除いてはたぶん二十年ぶりくらいに歯医者に行きました。いや、そこまではいかないかな。なんか、左の奥歯が痛いんだけど、と思って、これはもしや虫歯か?? と思ったら、単に詰め物が取れただけだった(笑)さすがに二十年近くくっついてたらなんかかんかぼろくなるよね。よくいままで頑張った、おつかれさまでした。。
 とってもいい歯医者さんだったよ。わたくし、自分が医者運がいいのは自覚がありますが、ほんとにいい歯医者さんでした。ほんとに採算とれてんの? っていうくらい時間をかけていろいろ説明してくれる。単に詰めたの取れただけなのにね。。。歯の状態とかさ、久しく歯医者に行ってません、て云ったら、いろいろやってくれました。レントゲンとかも取ってくれました。レントゲンのときって、なんかちょっと頭にずんてくるよね。。
 いつも思うんだけど、病気になったり身体のどこかがおかしくなるのって、ならないに越したことはないけど、でもどっかに、いいお医者さんはかならずいるってことです。探しまくれば絶対います。これは絶対です。どっかにいます。マスダがほんとの意味で探しまくったのはカウンセラーの先生だけだけど、どっかに、そのときのそのひとにふさわしいお医者さんが必ずいる。そういうのは、会うべくして会う。というわけで、ブラックジャック先生に治してもらえるひとも、たぶんなるべくしてそうなっているのだろうと思う。傍目には先生の気まぐれととれることがあったとしても。これでとてつもなく書きたいネタがいっこあるんだけど、ちょっとまだ熟成しきれてないので、書くのはたぶん先のことになると思います。

 あと、歯医者さんで待ってるあいだに、文藝春秋見てました。ようやく見たよ、年賀状書けない小学生とか、住所の書き方がわからない子がいるとかいう話。総じて、手紙を書くことがない、はがきの書き方がわからない子がいっぱいいる、というやつ。
 そりゃそうじゃん? というのが第一印象でした。だからっつっていまの子みんながみんなそうだ、というふうに受け取られるとこれちょっと違う話になると思うけど、だいたいいま手紙なんて書く必要、ほとんどないもんね。年賀状も書かなくてすむしね。メール送ればいいもんね。
 手紙派のマスダとしては、世の中から手紙が消えるなんてことはまずもってないと思う。ことに女子の場合。細やかな神経というのは女の天分のように思われているけど、まあそれもあながち間違いでもなくて、手紙のやりとりというのは文句なく楽しいもんだということを、たいがいの女は思春期に悟ると思うのだけどなあ。交換日記とか、手紙のやり取りとか、そういうのは昔から女子の好物であって、あたいも高校のときなんか、毎日会うともだちに毎時間お手紙書いてたりした。書きもしたし、もらいもした。小学校のときから手紙の交換ってずいぶんしていて、そういうのが実家に山ほどある。
 手紙を書くのは、文句なしに楽しい。もらうのも理屈抜きに楽しい。形式なんて、あとからいくらでも学べる。肝心なのは、誰かに手紙を書くとか、なにかをあげるっていうのはたぶん人間の本質的なところに根ざしていて、楽しいってこと。そういうところに目隠しをしない、そういう道をいくつも教えてあげる、そういうのが一種の教育なんとちがうかなあ。形式なんかわからなくても、書き方がまずくても、自分を発信するとかそれについて答えが返ってくるとか、そういう人間のアナログさを、忘れずに片隅にとどめておいたら、それでいいじゃないの。内容があけおめー、でも、新春のお喜びを、でも、そんなことはどっちでもいいので、なにかのかたちで、他人の息づかいが自分のところへ伝わってくるという、要はそういう経験のひとつなんじゃないかなあ、手紙というのは。そんで人間は、そういうものを、たぶん本能的に求めている。その伝え方を知らないと、あとあと栄養不足になって、とても苦しいことになってしまう。いろんなうえで大事なのは、栄養不足の人間を作らないという、そして断じて自分が魂の欠乏した人間にはなるまいという、そういうところにたどりつくんではないでしょうか。

 なんかそんなことを思った本日でした。

 こんばんは、マスダです。
 今朝方ものすごくエロいJじゃきりのゆめをみて、とても興奮して目がさめたので、これはまっさきにここに書かねばならぬと思っていたら、なんか青桐さんもジャキリの夢をみたらしいね(笑)ともだち!

 あたいの見た夢は、なんでかしんないけど遊廊っぽいとこが舞台で、乱れた和服の先生とキリコ先生がめっっっっちゃエロいことしてた。。。興奮しすぎて、なんかもう詳しく覚えてないけど、とにかくなんかちゅっちゅしたりくんくしたり、いたしたりしてたよ。。先生がね。。でさ、途中から、それがなんでかしんないけど、読んでるマンガだってことがわかって、マンガとアニメ映像みたいなのが入り乱れてとても至福のひとときでした。。もっとすらすらマンガ読めたらいいのになあ。。なんでみんなすらすらマンガ読めんの?
 もちろん、あたい飛び起きたよ(笑)そら飛び起きるわ。そんで飛び跳ねるわ。。で、興奮して窓開けたら雪降ってた(笑)そういう朝でした。
 もうなんかくらくらするような夢だったんだけど、ねえなんで夢って録画できないの? どうしてですか? 夢はやっぱり波長の違う世界の出来事だからですか? それともあたいの脳みそが、ジャキリに侵されすぎていて、ついにそれが視覚化したのですか? ねえどうしてなのですか?
 などなど、いろんな疑問その他いっぱいありますが、とりあえず今朝は幸せでした。なんかいいことあるかなって思ったけど、まああたい毎日が今日もいい日なので、それはそれでいいや。。

 で、ついでなのであたい更に青桐さんの真似して、あっち系の話をしようと思います。どっち系って、あっちだよ。。霊とかそっちの話。けっこう真面目に続きから書くからね。興味のあるひとは読んでください。そういうものは存在しない派のひとは、読まないでください。




 おひさしぶりでありますマスダです。
 えーと、東京砂漠に戻ってきたよ。そんで、戻ってきてさっそくカウンセリングいってきた。。
 わたくしと先生はたぶんとても相性がいいのでありますが、というかカウンセリングに行くときは相性がいい先生を見つけられたらそれだけで八割方成功だと思うんだけど、そういう理由でマスダはたぶんもうそんなにカウンセリングに通う必要はないのですけども、先生に会いたいので行きました。入院もはさんだのでけっこうかなりとても久々でした。
 いやあのね、ひとに云えないことをなんでも云えるヒトというのがいるのはとてもいいですよ。たぶん、友だちでもなく家族でもない全然そういうつながりのない、なんでも云えるヒト、を作っておくということは、とてもいいことだと思います。そういうときに大事なのは、金に汚くないとかエロくないとかいうのは当然だけど、たぶん自分の感覚を優先することです。どっかでこのひとはいいわよとかよろしくないわねえとか、教えてくれます。感覚が。ここ最近特にそう思うんですが、感覚って大切ですよ。感覚は、鋭敏にしておくに越したことはありません。世の中理性的なひとがすばらしいひと的な風潮がありますけども、論理性というのは直観(直感じゃないよ)の前では割合に無力なので、ベルクソンとか禅とかみんなそういうところへたどり着いているのだと思うけど、そういう感覚を持っておくというのはすごく大切なことと思う。

 話がそれた。。。ええと、なんだっけなあ、すいませんね書くこと溜めるとこういうことになるんですよ。んで、そうそう、誰か内情を露呈できるひと、それによってなんら関係性に影響のないひと、を作るのはいいです。断言します。とてもいいです。それってお金で成り立つ関係とも云えますが、ほんとにまじめにやってるカウンセリングの先生というのは決して損得だけでやってるのではないので、くどいけど、そういうひとを見つけるのはいいよ。そもそもカウンセラーなどという仕事は儲からないらしいし(笑)たぶん、うちのあたりらへんに来てくださるひとは、いろんなことを抱えているひとが多いのではないかと思い、ちょっと強調してみました。自分が楽になる方法はたくさん確保しておいたほうがいいです。
 最近、人生の究極の目的は自分を見出し自分になってゆくことである、と思うようになりました。見つけた兆しはあるから、あとはどんどん自分になってゆくことが課題なんだけれどもね。自分の個性だとか能力だとかいうものを、どう伸ばすのか、広げるのか、みたいな。この世界での自分の立ち位置を確立することが、たぶん大きな目的なんじゃなかろうか、と思ったりする。だけどもこの個性だとか能力だとかいうものは、絶対に金銭的価値に換算できるようなものではないから、この資本主義能率主義の世の中において、うまく金になるようなものを持っているひとはいいのだけど、そうじゃないひとはとても大変。でもだからこそいまこの時代に生を受けている意味もあるわけで、その葛藤がいいものを生むのだと思うから、どうにも生きにくいひとも頑張ってくれ、どっかでなにかがすとんと落ちるときがくるはずです。それに、資本主義というものが世界を牛耳るような状況でいるのも、そう長くはないはず。きっとね。希望的観測だけど。いつかはなにかに変わってゆくと思う。
 そんで世の中には生きるのが大変なひとと、そこまで思わないひととが当然いるわけだけど、前者だけが大変で、後者だけが楽してるってことはたぶんなくて、どっかで調整があって、うまくバランスがとれていると思います。森信三さんが、世の中はだいたい公平にできてる、って云ってた。たとえば気骨がある生徒で先生受けはあんまりよくないんだけど、クラスメイトには一目置かれているひとがいた場合、クラスメイトの評価がある時点で十分うめあわせされているのだって。多分そのとおりだと思う。森さんの『修身教授録』すごくいいから読んでみて!

 で、あとなんの話をするのだっけ。そうそう、ええと、このところいろいろ思うことあって、まだJKの続きをあまり書けていません。。すまねえ。。もうちょっと待っておくれ。。
 いや、というのも、今後これまでのように年に何本も長いのを書いていくということは、ちょっと難しいのかもしれないなあと思って。わかんないけどね。もしかしたら。マスダ結構量産型の人間だと思うんだけど、いつまでこのペースを保てるかは、わからないことだからね。。できるかぎりやっていきたいと思っているんだけど、よく考えたら結構書いてるから、そのうちに手を抜いてるのとか抜いてないのとかいろいろ、出てくるなあと思って。スピードと質というのはある程度まで両立するんだけど、それのバランスがどの程度まで心地よいものになるかは、ちょっとようやく手探りしだした感じ。まあもしスローペースになってしまったら、ごめんなさいということで。。。自負はあるんだよ。。。JK安打製造機であることの!!いちろーみたいな生き方、かっこよくないか(笑)

 まあそんなもろもろの思いもありつつ、マスダは続きにかかります。はやくあげろって話よ。。もう、ちょっとケツひっぱたいてくっからね!
 というわけで、東京砂漠のひとマスダをこれからもよろちく。。。
Admin    Write    Res
忍者ブログ [PR]