毎日頭の中が先生でいっぱいです
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
こんばんは。。最近筋トレしてたら腹筋するのが楽になってきてうれしいわたくしです、はい、文系人間の例にもれずうごくのだいきらいです、典型的引きこもりです。ずーっとじっとしているのも平気なのですが、筋力って大事だなと思いはじめて、腹筋背筋その他、やりはじめました。
でも身体って、ちゃんとやればやったぶん応えてくれるみたい。うれしいことこのうえなし。
拍手にて「エロいの」に一票くださった方、しかと心得ました。。そりゃあもう最大限の努力をしたく思います。
ちょうどいまネタもひとつあることですし、がんがん書きまする!ありがとうございます!
そのほかにも今日まで拍手いただいた方、ありがとうございます。
表題の件。
古本屋でミヒャエルエンデのインタビュー本を手に入れたのですが(エンデは、わたくしがおそらくもっともすきな作家のひとり。『はてしない物語』のバスチアン少年はわたくしであり、あらゆるわたくしの、子ども時代の、象徴のようなひとだった。これはそのうち別の機会に書く気がおきたら書きます)、その中でエンデが「芸術は何より治癒の課題を負っている」というひとことをのべているのですね。文学作品は作者のメッセージだといわれているけれども、それはまちがいである、そんなものは非芸術的であり、本物の芸術は教訓なんてたれない。それを読む、あるいは見ることによって、前よりもりこうになるのでなく、なにかを体験し、心が豊かになること、なにかが健康になること、そういうものだ、という。
これだ!と思いましたね。同時に、わたくしはなんだかこう、穴に入りたい気持ちになっているのですよ。つまり、なにかをこめること、なにかを含ませること、示唆すること、伝えること、そういう、なんというか啓蒙的な活動に、文学というものが、小説というものが、のみこまれてしまっているのではないかと、そしてそういう思考に慣れ親しんだ自分もまた、この話の中でなにをいいたいの?なにをつたえたいと思っているの?と自問自答し、それ全体に創作活動そのものが、とらわれているのだと気づいたものだから。それはわたくしのなかに、もう意識レベルでしっかりと植えつけられていて、なにかを、なにかを云うこと、なにかを示唆すること、なにか内容を、意味をもたせること、そういうことが、あるべきものかきの道であると、盲目的に信じてきたわけなのです。「内容」を重視すること、ということばで云ってもいい。
なにかを表現することが、すなわち啓蒙的な意味を帯びてくること。なにを意味するのかを、常に考えなくてはいられないこと。そういうパターンに、わたくしのものかきは、とらわれている。または、そのなかでだけ、もがいている。
それでわたくしはおもったわけなんです、内容が云々、ということを論じることは、すなわち差別化に通ずることにもなろう、なぜならば、そういう理屈でいけば、より内容の濃いもの、もしくはそこで伝えられているものが核心をついているものほど、「いい」というものになるわけで、さらに受け手の側に一種の解釈合戦のようなものを発生させることになる。そもそも作品とは「解釈」されるべきものか?「理解」すべきものか?作品を理解する、解釈する、という行為を、あまりにもいろんなところにあてはめていこうとする、あまりにもいろいろなものに「意味」を、もしくは「意義」を見出そうとする、そういう行為が、必然的に生むだろうもののこと。それは、一体何になるのか?
作品とは、ある程度、癒しでなければならない。なんとなくの感覚として感じていたことが、ことばとして納得できた瞬間でした。ものをかくことは、理解されること、共感を得ることへの欲求であり、欠乏の病理だ、とわたくしは(あくまでわたくしのケースだけど)思っているけれど、だからあらゆる創作は、すべて人間に向けてなされるものでなければならない。
その人間に向けてなされるものが、なにを指して、どこを目指して進むべきものだったのか、わたくしはどうもはっきりつかめていなかった。けれども、このエンデのひとことで、ああ、なるほどなあ、と思ったのですね。
妄想って、癒しの要素を多分に含むと気がついた。ジャキリっていいわ……あは……とかいう瞬間は、実は癒されているということなのね。こんな自明のことに、わたくしはいままで気がつかなかったということなのでした。だから、うまく云えないけれど、わたくしにとって書くという行為が欠乏感から生ずる病理であるということならば、その「書く」という行為には治癒の効果があるはずだ、それならば、読み手にとってもそれはひとしく治癒の効果を発するものでなければならない。
なんか、わかった。なんかわかったよ、わかったとしかいいようがないけれど、わかった。わかりにくいこと書いてすみません。個人的にはすごく納得してるのですよ。これでも。
すげえ楽になったよ。だからって質を落としていいという話ではありませんよ。それだけは、やらんように気をつけようと思います。けれども、進むべき方向が見えた、という話なのです。
なにかを感じたら、なにかこう、なにかの気分とか、なにかを味わっていただけたら、それはたのしいとかなんでもいいけど、それでいいのだ。単にそれでいいのだ。
読書とは、体験だ。そんな根本を、わたくしは、たぶんわすれていたのだと、思った。
そんなすごい一文に出会った。出会うべくして、出会った一文というか。
やっぱりエンデはすごい。そしてジャキリはすばらしい。←結局そこ
でも身体って、ちゃんとやればやったぶん応えてくれるみたい。うれしいことこのうえなし。
拍手にて「エロいの」に一票くださった方、しかと心得ました。。そりゃあもう最大限の努力をしたく思います。
ちょうどいまネタもひとつあることですし、がんがん書きまする!ありがとうございます!
そのほかにも今日まで拍手いただいた方、ありがとうございます。
表題の件。
古本屋でミヒャエルエンデのインタビュー本を手に入れたのですが(エンデは、わたくしがおそらくもっともすきな作家のひとり。『はてしない物語』のバスチアン少年はわたくしであり、あらゆるわたくしの、子ども時代の、象徴のようなひとだった。これはそのうち別の機会に書く気がおきたら書きます)、その中でエンデが「芸術は何より治癒の課題を負っている」というひとことをのべているのですね。文学作品は作者のメッセージだといわれているけれども、それはまちがいである、そんなものは非芸術的であり、本物の芸術は教訓なんてたれない。それを読む、あるいは見ることによって、前よりもりこうになるのでなく、なにかを体験し、心が豊かになること、なにかが健康になること、そういうものだ、という。
これだ!と思いましたね。同時に、わたくしはなんだかこう、穴に入りたい気持ちになっているのですよ。つまり、なにかをこめること、なにかを含ませること、示唆すること、伝えること、そういう、なんというか啓蒙的な活動に、文学というものが、小説というものが、のみこまれてしまっているのではないかと、そしてそういう思考に慣れ親しんだ自分もまた、この話の中でなにをいいたいの?なにをつたえたいと思っているの?と自問自答し、それ全体に創作活動そのものが、とらわれているのだと気づいたものだから。それはわたくしのなかに、もう意識レベルでしっかりと植えつけられていて、なにかを、なにかを云うこと、なにかを示唆すること、なにか内容を、意味をもたせること、そういうことが、あるべきものかきの道であると、盲目的に信じてきたわけなのです。「内容」を重視すること、ということばで云ってもいい。
なにかを表現することが、すなわち啓蒙的な意味を帯びてくること。なにを意味するのかを、常に考えなくてはいられないこと。そういうパターンに、わたくしのものかきは、とらわれている。または、そのなかでだけ、もがいている。
それでわたくしはおもったわけなんです、内容が云々、ということを論じることは、すなわち差別化に通ずることにもなろう、なぜならば、そういう理屈でいけば、より内容の濃いもの、もしくはそこで伝えられているものが核心をついているものほど、「いい」というものになるわけで、さらに受け手の側に一種の解釈合戦のようなものを発生させることになる。そもそも作品とは「解釈」されるべきものか?「理解」すべきものか?作品を理解する、解釈する、という行為を、あまりにもいろんなところにあてはめていこうとする、あまりにもいろいろなものに「意味」を、もしくは「意義」を見出そうとする、そういう行為が、必然的に生むだろうもののこと。それは、一体何になるのか?
作品とは、ある程度、癒しでなければならない。なんとなくの感覚として感じていたことが、ことばとして納得できた瞬間でした。ものをかくことは、理解されること、共感を得ることへの欲求であり、欠乏の病理だ、とわたくしは(あくまでわたくしのケースだけど)思っているけれど、だからあらゆる創作は、すべて人間に向けてなされるものでなければならない。
その人間に向けてなされるものが、なにを指して、どこを目指して進むべきものだったのか、わたくしはどうもはっきりつかめていなかった。けれども、このエンデのひとことで、ああ、なるほどなあ、と思ったのですね。
妄想って、癒しの要素を多分に含むと気がついた。ジャキリっていいわ……あは……とかいう瞬間は、実は癒されているということなのね。こんな自明のことに、わたくしはいままで気がつかなかったということなのでした。だから、うまく云えないけれど、わたくしにとって書くという行為が欠乏感から生ずる病理であるということならば、その「書く」という行為には治癒の効果があるはずだ、それならば、読み手にとってもそれはひとしく治癒の効果を発するものでなければならない。
なんか、わかった。なんかわかったよ、わかったとしかいいようがないけれど、わかった。わかりにくいこと書いてすみません。個人的にはすごく納得してるのですよ。これでも。
すげえ楽になったよ。だからって質を落としていいという話ではありませんよ。それだけは、やらんように気をつけようと思います。けれども、進むべき方向が見えた、という話なのです。
なにかを感じたら、なにかこう、なにかの気分とか、なにかを味わっていただけたら、それはたのしいとかなんでもいいけど、それでいいのだ。単にそれでいいのだ。
読書とは、体験だ。そんな根本を、わたくしは、たぶんわすれていたのだと、思った。
そんなすごい一文に出会った。出会うべくして、出会った一文というか。
やっぱりエンデはすごい。そしてジャキリはすばらしい。←結局そこ
PR
この記事にコメントする