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毎日頭の中が先生でいっぱいです
2025/04
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 こんばんは、もうほんとにあついわねえ毎日毎日。。チャリこいでると問答無用で腕が焼けていきます。日焼け止めなんて……効果ないんだぜ……(笑)

さてさて、わたくしの子宮には筋腫さんがいるわけですが、なんか最近このこと仲良くなりたくてですね(笑)なんとか切らなくてもいいような方法ないかなーと思って、病院探してたわけですよ。んで、なんかよさそうなとこ見つけたので、今日行ってきました。
うん、勘は当たった! どうやら、うまいこと自分と調和してゆけそうです。

ほんと、どこに行っても云われるんだけども(この場合のどこに行っても、というのは、ある程度の人間というものへの理解のある場合の話ではありますが)、わたくしは思考優勢すぎるんだそうだ。自分がこうなったのには語れば長い経緯があって、まあ当時の自分としてはとても妥当な方法を選択したということでもあり、翻せばそれは自分のある程度の知性、っていうか猜疑心に根ざしてるから厳密には知性とは云えないけどもまあそう呼んでおく、そういうものを保証するものではあるけども、どうもそこいらへんのバランスというものが、大変不調和である! というのは前から思ってた。んで、そこをどうにかするところ、からはじめます。これ、筋腫となんの関係ある? という話だと思うけど、あるんだよ、たぶん。わたくしは、病気というのは不調和の総決算だと思っているので、いや、もっと特殊なケースも数え切れないくらいあると思うけれど、すくなくとも自分の場合はそうだという確証があるので、まあ気楽に気長に、おつきあいしていきます。

手術でとっちゃう、というのはとても手っ取り早いのだけれど、それをやってしまうとこの子、かわいそう、じゃあなんのために君は生れてきたんだいということになっちゃうじゃん、というくらいの、愛着がわいているわけ、筋腫に対して。病気に愛着? と思うだろうけれど、だってもともと自分の一部なわけだから、愛着がわかない方がおかしくないかい? それは、おれ絶対おまえのこと手放さないからな! という固執のような愛着ではなくて、自分の一部として感じるという意味の愛着。それは地道ながら、自分を肯定していく道筋の、ひとつでもある。
いや、ほんとにね、自己肯定というのは、吐き気をもよおすような陳腐な自己愛の理論では、決してないと思うよ。そういうのが好きなひととか、溺愛されたい願望がある方は、それでもいいと思うのだけど、わたくしは自己肯定というものはもっととてもシビアな確証と責任の自覚だと思う。自分というものがいかに小さいものであり、無力なものであり、おばかさんなものであるかを知りつつも、まあいっか、のあきらめに似た気持ちとともに、自己を日々リセットしつつ向上させつつ管理していく責任、に目覚めることであると思う。陽気なただの自分大好き、では、すくなくともわたくしの場合は、ないのです。自分を知り、それを肯定していくということは。肯定すればするほど、とても大きな責任のようなものを感じます。ひととしてこれだけは、為さねばならぬということがあるとも感じます。

とかなんとか、いろんなひとが書いていると思うけれど、ほんとに、病気ひとつでも学ぼうと思えばいろんな方向につながっていくよ。そうすると、人生とか、人間とか、もっとその上にあるものとか、いろんなものがわかってきます。人間は肉体だけの存在ではないし、そこに精神というものがあって、たぶん病気を作っていくのはこの精神の作用というか、それはもうものすごい力だと思うから、だから、別の見方をすればそれだけのものを自分の身体は持っているんだ、という、そういうちょっと逆説的な自信のようなものが、見方によっては生まれてきます。それが、わたくしが最近わかったことね。
日々いろんなことがありますが、道はちゃんとつながってます。そういう一日でした。。

あと、あんまり関係ないけど、続きに、知性というものと頭でっかちというところの境目について自分なりに考えていること。なんかピンとくる方だけ読んでね。きっとそんなあなたとわたくしは仲間(笑)





自分を納得させようとして行う思考は、往々にしてなんかいろいろと問題がある気がする(笑)わたくし、観念的な問題にはあまり悩まないんです、答えがすぐ出てくる、っていうか、ブログなんかに書いてる途中で出てくるから。
なんだけど、自分を納得させようとして行う思考というのは、たいがいのところ、どうも間違いに陥りやすい笑 感じたものはこうだけど、でもこうかもしれないとか、ああかもしれないとか、そういう、なんだろうな、根深い自己不信から派生する、一連の思考。
そういうものは、どうもよろしくないらしい。感性というか、直観というか、そういうものってとても大切で、それがぴんときたものは、もう従ってみたほうが、いいのかもしれない、と思う。
ほんとは心、魂、精神、呼び方はなんでもいいけど、そういうものがなにかを感じてるんだけど、それに気がつかないとか、気がついてるんだけどスルーするとか、気がついたんだけど否定するとか、そういう意味での思考、現実の行動を阻む思考、というものが、ひとがわたくしに云うところの、頭でっかちさん、というところの思考なんだろう、と思います。
感情ひとつにとっても、これ楽しいのかほんとに、これは正しく楽しいという感情なのか、とか考えてくとまったくもってわからなくなるし。いや、実際わかってないんだけどね、わたくしの場合には(笑)だから、そこをわかる、というか、認識できる能力を養うというのが、いま必要になっているわけで。ほんとにね、自分の感情をつかめるというのも、ある意味ですごく高等なスキルなんですよ、きっと。心の声、と呼ばれるものを聞きとる、というのはね。
わたくしにはこれ、なによりも難しいと思うのね。たぶんスキップとかなわとびとかと同じくらい難しいと思う。どっちもできないし。。
頭でっかちさんというのは、この心の声みたいなものを殺してしまう天才なんだろうとわしは思った。そして思考の支配力が強いひとのことを云うのだろうとわしは思った。でも人間脳みそで生きてるわけじゃないから、全身脳みそでもこれ困る。そこはもうちょっとバランスを取れー! ということなんだろうと思われる。どこかで、感情と思考の優劣は、逆転する瞬間がないといけないんだと思うんですよ。どっちが上でどっちが下でもありうることだけれど。そこに、人生の妙味って出てくると思うの。

思考と感受性とのバランス、というのは、わたくしがどうしても整えていかなきゃならない、っていうか取り戻さないとならないところで、その段階に行きつくことができたら(ちょっと生きてるうちにできるかは不明だけど)、たぶんもっといろんなものが見えるだろうと思うのですね。
自分の感性を信じられる、自分が感じている感情をそのまま感じられる、というのはこれ、とってもすごいことだと思うから、そういうものを律しすぎない姿勢というものが、大事なんだろうなと思うのね。
それ以外のものには、いくら頭を酷使しても、問題ない、と思います。哲学書前に頭抱えるとか、人生について考えをめぐらす、なぜだろうと問い続ける、なんてのは、これ最高なんでなかろうか。そういう頭なら、脳みそがからからにひからびるまで使いたいですね。
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