毎日頭の中が先生でいっぱいです
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ふうふう、おつかれさまですこんばんは。
今日カウンセリングにいってきたってわけで案の定えらい疲労。最近どんなときに疲労するかわかってきたのでちょっと進歩したかなーと思いたい。
以下わがメンタルの覚書。ダウン系の話ではありませんが、あんまりおもしろくないです。興味のある方は読んでください。
最近、自分があんまりいろんな感情にひっかかりを感じるので、結構たいへんです。
わたくしはたぶんどっちかつわなくても頭でっかちの人間なんですが、どうも自分の頭と心っていうのが分離した状態で生きてきたみたいですね。思考したうえで、いまの感情はこうであろうと思うところから、わたくしの感情はスタートする。割合に。
自分がふたりいる感覚なのね、いつも。うえから見てるひとと、実際に現実に直面しているひとと。完全に分裂しているわけではないんだけど、というかそこが分裂していたらもうわしゃ別の病気を疑うけれども、どうもわたくしは自分の気持ちらしきものを認識するのが苦手なんですね。確信が持てない。これはこう思っている、でいいのだろうか?たぶん、この状況からするにこうであろう、と考えてます。結構まじめな話です。これ、わかるひとにはわかると思う。
自分のことを、理解するというのは難しい。それよりなら、他人のことのほうがよくわかる。
だけどつまり、いま自分の感情をとらえる訓練をしていってるわけなのだけど、結局、自分にその感覚がないもの、というのは、他人のそれも推測にしかなり得ぬのではないか、要は、わたくしが他人についてこうであろうと推測するそれは、自己体験があってこそ「共感」と呼べるのであって、これまでのところ、憶測の憶測、というややこしいステップを踏んで成り立っているにすぎない。
ある一部の感情については、ものすごく嗅ぎあてることができるのだけれども。そして明確に「共感」以上に発展してってしまうので、これまた別個のややこしい問題なわけでありますけれども。。
これまでは、そういうのがなんでできるのかわからなかったわけだけど、原因がわかると複雑な気分になるものです。
この3カ月くらいで、結構さまざまの浮き沈みをダイナミックに体験したと思うのだけど、たとえばあてどなくなにかを恨む感覚というのを覚えたし、取り返しのつかぬものへの喪失感を感じたりもしたけれど、それでもいま現状生きているのはわたくしであって、過去はまあ過去でしょうがないことで、変われるものは変えればいいのだし、その変えられるものは、結局自分でしかない、というのが暫定の結論。これまた難しい問題でありますけれどね。。。
というわけで、自分を理解する、ということと、そのうえで行動する、ということは、自分で自分をふりまわさないためには、えらい大事なことなんちゃうん、と関西人ではないけど関西弁で締め。。。
このへんの変化につれて、書くものへの変化がたぶんそのうち、いますぐではなく、もしかしたらかなり先かもしれないけれど、ダイレクトになるという予感がありますが、まあそれはごめんしてください。感じる方は、こいつあほだな、と思ってやってください。
ひちょりんをえねっちけーでみれて、すごくうれしい!ひちょりんかっこええ。。ひちょりんの実家の焼肉屋にいきたいけど焼肉屋だよ……にく、食べられないから売り上げに貢献できません。
今日カウンセリングにいってきたってわけで案の定えらい疲労。最近どんなときに疲労するかわかってきたのでちょっと進歩したかなーと思いたい。
以下わがメンタルの覚書。ダウン系の話ではありませんが、あんまりおもしろくないです。興味のある方は読んでください。
最近、自分があんまりいろんな感情にひっかかりを感じるので、結構たいへんです。
わたくしはたぶんどっちかつわなくても頭でっかちの人間なんですが、どうも自分の頭と心っていうのが分離した状態で生きてきたみたいですね。思考したうえで、いまの感情はこうであろうと思うところから、わたくしの感情はスタートする。割合に。
自分がふたりいる感覚なのね、いつも。うえから見てるひとと、実際に現実に直面しているひとと。完全に分裂しているわけではないんだけど、というかそこが分裂していたらもうわしゃ別の病気を疑うけれども、どうもわたくしは自分の気持ちらしきものを認識するのが苦手なんですね。確信が持てない。これはこう思っている、でいいのだろうか?たぶん、この状況からするにこうであろう、と考えてます。結構まじめな話です。これ、わかるひとにはわかると思う。
自分のことを、理解するというのは難しい。それよりなら、他人のことのほうがよくわかる。
だけどつまり、いま自分の感情をとらえる訓練をしていってるわけなのだけど、結局、自分にその感覚がないもの、というのは、他人のそれも推測にしかなり得ぬのではないか、要は、わたくしが他人についてこうであろうと推測するそれは、自己体験があってこそ「共感」と呼べるのであって、これまでのところ、憶測の憶測、というややこしいステップを踏んで成り立っているにすぎない。
ある一部の感情については、ものすごく嗅ぎあてることができるのだけれども。そして明確に「共感」以上に発展してってしまうので、これまた別個のややこしい問題なわけでありますけれども。。
これまでは、そういうのがなんでできるのかわからなかったわけだけど、原因がわかると複雑な気分になるものです。
この3カ月くらいで、結構さまざまの浮き沈みをダイナミックに体験したと思うのだけど、たとえばあてどなくなにかを恨む感覚というのを覚えたし、取り返しのつかぬものへの喪失感を感じたりもしたけれど、それでもいま現状生きているのはわたくしであって、過去はまあ過去でしょうがないことで、変われるものは変えればいいのだし、その変えられるものは、結局自分でしかない、というのが暫定の結論。これまた難しい問題でありますけれどね。。。
というわけで、自分を理解する、ということと、そのうえで行動する、ということは、自分で自分をふりまわさないためには、えらい大事なことなんちゃうん、と関西人ではないけど関西弁で締め。。。
このへんの変化につれて、書くものへの変化がたぶんそのうち、いますぐではなく、もしかしたらかなり先かもしれないけれど、ダイレクトになるという予感がありますが、まあそれはごめんしてください。感じる方は、こいつあほだな、と思ってやってください。
ひちょりんをえねっちけーでみれて、すごくうれしい!ひちょりんかっこええ。。ひちょりんの実家の焼肉屋にいきたいけど焼肉屋だよ……にく、食べられないから売り上げに貢献できません。
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