毎日頭の中が先生でいっぱいです
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こんばんは、あついの?さむいの?なんだかよくわかりません。
くろーずあっぷ現代がおとなかわいいの特集をしてましたのでみました。なんだかんだで歳だけがいってしまい、着るものやメイクはあいかわらずな女がここにもひとりいますので、ひとごとでねえ、と思ってけっこうちゃんと見ました。よしかわひなのちゃん大好き、かわいい。。。りんかもかわいい。。
当方現在四捨五入すると30になるというおとしごろですが、気持ち的に学生じぶんとあんまりかわっていないように思います。かわってないから、服装もかわらない。かわいいものはかわいい。おとなかわいい、をひも解いてゆくとたぶん、年齢なんぞ関係なく好きなものを好きなときに着ればいいのだむっふっふ、というあたりにたどりつき、なんでたかだか数年歳を経ただけで、こうであらねばならぬ、というなんとなくの社会的規範がかわってきてしまうのであろうかー別にいいではないかーという、ある種の既成概念に対する反対意識というものが見えなくもないよね。こどものままでいたい、とか、いつまでも若くいたいとかいうことではなく、好きなものは、その価値観が変化しないかぎりいつまでたっても別に好きでいいではないか、ということなんだよね。たぶん。
わたくしは、割で「あらねばならぬ」には懐疑的な立場なのでありますが、というのも、そういうhave toだとかmustというものをどんどんつきつめてゆくと、実はまったく根拠などないものがほとんどであって、従わないからといって人間として失格だとかいうことには必ずしもならないような気がする、ということ。見るひとから見れば、わがままだ、というふうにうつるのだろうけれども。
社会的文化的なありとあらゆるルールというもののうち、なにが死守すべきもので、なにがとらわれなくてもいいものか、というのは、とっても難しい問題ではあるけれど。それに対するとらえかたそのものが、そのひとなのだろうな、とも思う。
究極、人間はなにをしてもしなくてもいい、とも云えるのではないかとも思ったことがある。あらゆることが、自由である、と云えるかもしれない。究極には。ただ、この自由ということばにはたいへんいろんな含みがあって、いろんな付随するものもあって、右も左もわからぬうちから自由だーという、そういう権利ばかり行使することにはこれまたわたくし割合反対だったりする。自分の頭で考えられるだけの経験だとか、精神的鍛錬だとか、そういうものを経てから、要は自分の選択の結果に自分で責任を持てるようになってから、行使できる最高の権利であるような気もします、自由というものは。自分で自分をわかろうとする、そういう姿勢をもてるようになってから、というかね。
なんだかおとなかわいいとずれてきたけれど、自由ということについてずばりこれと個人的に思っている、チェスタトンの一文をあげておきます。これをどういう方向へ解釈するか、というのもまた、とてもそのひとがあらわれて面白い問題なのではないかと思います。
くろーずあっぷ現代がおとなかわいいの特集をしてましたのでみました。なんだかんだで歳だけがいってしまい、着るものやメイクはあいかわらずな女がここにもひとりいますので、ひとごとでねえ、と思ってけっこうちゃんと見ました。よしかわひなのちゃん大好き、かわいい。。。りんかもかわいい。。
当方現在四捨五入すると30になるというおとしごろですが、気持ち的に学生じぶんとあんまりかわっていないように思います。かわってないから、服装もかわらない。かわいいものはかわいい。おとなかわいい、をひも解いてゆくとたぶん、年齢なんぞ関係なく好きなものを好きなときに着ればいいのだむっふっふ、というあたりにたどりつき、なんでたかだか数年歳を経ただけで、こうであらねばならぬ、というなんとなくの社会的規範がかわってきてしまうのであろうかー別にいいではないかーという、ある種の既成概念に対する反対意識というものが見えなくもないよね。こどものままでいたい、とか、いつまでも若くいたいとかいうことではなく、好きなものは、その価値観が変化しないかぎりいつまでたっても別に好きでいいではないか、ということなんだよね。たぶん。
わたくしは、割で「あらねばならぬ」には懐疑的な立場なのでありますが、というのも、そういうhave toだとかmustというものをどんどんつきつめてゆくと、実はまったく根拠などないものがほとんどであって、従わないからといって人間として失格だとかいうことには必ずしもならないような気がする、ということ。見るひとから見れば、わがままだ、というふうにうつるのだろうけれども。
社会的文化的なありとあらゆるルールというもののうち、なにが死守すべきもので、なにがとらわれなくてもいいものか、というのは、とっても難しい問題ではあるけれど。それに対するとらえかたそのものが、そのひとなのだろうな、とも思う。
究極、人間はなにをしてもしなくてもいい、とも云えるのではないかとも思ったことがある。あらゆることが、自由である、と云えるかもしれない。究極には。ただ、この自由ということばにはたいへんいろんな含みがあって、いろんな付随するものもあって、右も左もわからぬうちから自由だーという、そういう権利ばかり行使することにはこれまたわたくし割合反対だったりする。自分の頭で考えられるだけの経験だとか、精神的鍛錬だとか、そういうものを経てから、要は自分の選択の結果に自分で責任を持てるようになってから、行使できる最高の権利であるような気もします、自由というものは。自分で自分をわかろうとする、そういう姿勢をもてるようになってから、というかね。
なんだかおとなかわいいとずれてきたけれど、自由ということについてずばりこれと個人的に思っている、チェスタトンの一文をあげておきます。これをどういう方向へ解釈するか、というのもまた、とてもそのひとがあらわれて面白い問題なのではないかと思います。
自由とは一体何か?自由とは、なによりもまず自分自身であることができる力だ。(中略)自分自身であること、それを自由というんだが、そのこと自体が限定にほかならないのだと思い至った。ぼくたちは自分の頭脳や肉体によって限定された存在であり、もしそれを突き破ろうものなら、自分自身でなくなってしまうのはもちろんのこと、存在さえしなくなるのだ。中村保男訳 『詩人と狂人たち』より。
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