毎日頭の中が先生でいっぱいです
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こんばんは、豪雪地帯にお住まいの方地吹雪にはお気を付けください。。なんでもいいけどさむいよー。。
拍手のさくぶん読んでいただきありがとうございます。ひと手間かけさせてしまい申し訳ありません。早めにテキストページに移すようにしますので。。
コメントのお返事はお返事ページにて。ありがとうございます。
で、いただいたコメントからちょっと書いておいた方がいいなと思ったことを書きます。「どう書くかどう読むか」ということについて。
わたくしは、個人的に「どう書くも自由、どう読むも自由」という姿勢をとりたいと思っています。つまり、わたくしは好き勝手書くし、それについてどういう意見もしくは感覚あるいは解釈をもっていただいてもいっこうかまわない、と思っています。もしくは、そんなものを抱くほどの価値のあるものではない、と思っていただいても全くかまわない。単なる時間つぶしや、娯楽であってもかまわない。
というのも、ものを読むときには、そのひとの認知を通して読まれるので、10人いたら10通りの感じ方があって当然だと思うのです。つまり、作品というのは書いたひとはひとりかつ、そのひとなりになにか考えて書くわけですが、それを世に放りだしたときに、それぞれひとによっていろいろな受けとられ方をするものであるというのは、書く側は認識していてしかるべきだと思う、ということであります。
たとえば、それで自分がこうと思って書いたのと同じ結論に達してくださった方がいたら、それはたぶんその方となにかしら似たような経験や、このみや、云ってみれば似たような質の持ち主ということになるかもしれないから、ありがたくも同じような結論に達していただけたのかなあ、と個人的に思ったりなどしています。
だからたとえばわたくしが意図しない感じとか感覚を持ってくださった方がいたら、それはそれですごくありがたいし、もっと話を広げれば、あるものを読んである感じ方をする、というその感性を、みんなみんな大事になさってほしいと思うのです。わたくしはそれが、インディヴィジュアリティすなわち個性、というものの本質をなすものだと、思いますので。
なんか上から目線ですみません。でもなにが云いたいかと云うと、小説のみならず書かれた作品全般についてなのですが、もしも、読み手なりに何かしらの感想や、感覚をもったとして、それが書き手と同じかどうか、あるいは書き手の意図したことであるかを、気に病む必要は全くない、と思うのですね。読むという行為は、こたえさがし、ではないと思うのです。もしも、ほとんどの読者に、意図したことと全く逆のことを思われてしまうような作品があったとしたら、それはその書き手のとてつもないひねりか、もしくはまったくの実力不足である、と云わざるを得ない、すなわち、書き手の問題である、と思います。そしてつけ加えれば最近、この「意図」というところにも疑問をもってきているわけです。
で、わたくしは「好き勝手に書く」と云いましたが、しかしながら書き手にはこうして、必然的に制約が生じてゆくことになるかもしれないわけですね。このあたりはまた書く気が起きたら書きます。
などと書いておいて、実際では思い切った感想を書けるのか、と云われると、難しいものであるというのは身にしみてわかってはいるのですが……。。。
とにかく、わたくしはちょっと見解が異なるとすぐ文句をつけたがるようなひとには、なんだかためいき、というような心境に陥るわけなのです。世の中いろんな考えのひとがいますけれど、わたくしは、すくなくとも自分の書いたものについては、どうとらえていただいても、その行為がすでにありがたいことなんだと、そういうふうに思っているのです。
で、あと全然関係ないけど、てづかカレンダーの2月がヴェネチアのカーニヴァルなんですが、ちょいとインスパイアされまして、いまヴェネチアのカーニヴァルにいるジャキリを書こうとお勉強中です。
2月中には完成させたいんだよ。
拍手のさくぶん読んでいただきありがとうございます。ひと手間かけさせてしまい申し訳ありません。早めにテキストページに移すようにしますので。。
コメントのお返事はお返事ページにて。ありがとうございます。
で、いただいたコメントからちょっと書いておいた方がいいなと思ったことを書きます。「どう書くかどう読むか」ということについて。
わたくしは、個人的に「どう書くも自由、どう読むも自由」という姿勢をとりたいと思っています。つまり、わたくしは好き勝手書くし、それについてどういう意見もしくは感覚あるいは解釈をもっていただいてもいっこうかまわない、と思っています。もしくは、そんなものを抱くほどの価値のあるものではない、と思っていただいても全くかまわない。単なる時間つぶしや、娯楽であってもかまわない。
というのも、ものを読むときには、そのひとの認知を通して読まれるので、10人いたら10通りの感じ方があって当然だと思うのです。つまり、作品というのは書いたひとはひとりかつ、そのひとなりになにか考えて書くわけですが、それを世に放りだしたときに、それぞれひとによっていろいろな受けとられ方をするものであるというのは、書く側は認識していてしかるべきだと思う、ということであります。
たとえば、それで自分がこうと思って書いたのと同じ結論に達してくださった方がいたら、それはたぶんその方となにかしら似たような経験や、このみや、云ってみれば似たような質の持ち主ということになるかもしれないから、ありがたくも同じような結論に達していただけたのかなあ、と個人的に思ったりなどしています。
だからたとえばわたくしが意図しない感じとか感覚を持ってくださった方がいたら、それはそれですごくありがたいし、もっと話を広げれば、あるものを読んである感じ方をする、というその感性を、みんなみんな大事になさってほしいと思うのです。わたくしはそれが、インディヴィジュアリティすなわち個性、というものの本質をなすものだと、思いますので。
なんか上から目線ですみません。でもなにが云いたいかと云うと、小説のみならず書かれた作品全般についてなのですが、もしも、読み手なりに何かしらの感想や、感覚をもったとして、それが書き手と同じかどうか、あるいは書き手の意図したことであるかを、気に病む必要は全くない、と思うのですね。読むという行為は、こたえさがし、ではないと思うのです。もしも、ほとんどの読者に、意図したことと全く逆のことを思われてしまうような作品があったとしたら、それはその書き手のとてつもないひねりか、もしくはまったくの実力不足である、と云わざるを得ない、すなわち、書き手の問題である、と思います。そしてつけ加えれば最近、この「意図」というところにも疑問をもってきているわけです。
で、わたくしは「好き勝手に書く」と云いましたが、しかしながら書き手にはこうして、必然的に制約が生じてゆくことになるかもしれないわけですね。このあたりはまた書く気が起きたら書きます。
などと書いておいて、実際では思い切った感想を書けるのか、と云われると、難しいものであるというのは身にしみてわかってはいるのですが……。。。
とにかく、わたくしはちょっと見解が異なるとすぐ文句をつけたがるようなひとには、なんだかためいき、というような心境に陥るわけなのです。世の中いろんな考えのひとがいますけれど、わたくしは、すくなくとも自分の書いたものについては、どうとらえていただいても、その行為がすでにありがたいことなんだと、そういうふうに思っているのです。
で、あと全然関係ないけど、てづかカレンダーの2月がヴェネチアのカーニヴァルなんですが、ちょいとインスパイアされまして、いまヴェネチアのカーニヴァルにいるジャキリを書こうとお勉強中です。
2月中には完成させたいんだよ。
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